意外と不正確な点が多いようです。
コルシカ島の歴史は波瀾に満ちている。太古の昔は山岳部に居住する先住民と外来の支配者に明確に区分されていた。先住民についてはその詳細は今だ解明されていないが、ケルト先住民と共通する文明、例えば巨石文明や人物の彫塑のある石柱が島の南部に多数見られる。一方、外来者は紀元前にはフォカイア、エトルリア、カルタゴなどが、中継貿易拠点としてコルシカ島の沿岸地帯の覇権を争った。島東部海岸にあるアレリアにはエトルリアの遺跡がある。最終的に島に対する覇権を握ったのはカルタゴだったが、ポエニ戦争で古代ローマに敗れたため、紀元前3世紀頃から島の支配権はローマに移る。ローマはアレリアに都市を建造し、さらに北部バスティア南郊にマリアナを築く。ローマによる繁栄はしばらく続くが、ローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン勢力の侵入が始まると、コルシカ島には外部勢力、特に海賊による襲撃が始まる。
6世紀後半頃から十字軍によるイスラム勢力のヨーロッパからの駆逐が完了する11世紀頃までこの状態が続き、島ではこの期間を「暗黒時代」と呼んでいる。山岳部の先住民たちはローマ時代には平地に降りて、ローマ人と共存した時期もあったが、暗黒時代になると外部民族の襲撃を恐れて、再び山岳部の小集落(パエーゼ)に身を潜めて自給自足の生活にもどる。近代以降フランスではコルシカの独自の風習が取り上げられているが、その独自性はこの暗黒時代に遡ると思われる。
中世になるとイタリア半島の都市国家、ピサとジェノヴァがコルシカ島を植民地支配する。ローマ教皇の命により11世紀ピサがコルシカ島を統治するが、その後ジェノヴァが徐々に島の沿岸地帯に城塞都市を建造し、ピサからその支配権を奪い取ってゆき、13世紀にはジェノヴァの支配が確立する。現在のコルシカにある都市のほとんどがジェノヴァ統治時代にジェノヴァによって建造されたものである。
ジェノヴァの支配は過酷であり、島民はたびたび反乱を起こした。中世では16世紀のサンピエール(サンピエロ・コルソ)の反乱が最大のもので、これはジェノヴァによって鎮圧されたが、1729年に始まる40年戦争はかつてなく大規模かつ組織的な闘争だったためにジェノヴァはこれを抑えられず、1768年にジェノヴァとフランスはフランス軍をコルシカに派兵するかわりにジェノヴァは一定期間のコルシカ統治権をフランスに譲るという内容の、ヴェルサイユ条約を締結した。
一方のコルシカは1755年、独立運動の指導者パスカル・パオリを首班とする独立政府を樹立し、コルシカの国歌や国旗、憲法、通貨や大学、徴兵制など近代国家の原型ともいえる制度も創出して行き、1769年、フランス軍とコルシカ軍との間で戦争が始まった。バスティア南郊のボルゴの戦いではコルシカ軍はフランス軍を駆逐したが、同年5月のポンテ・ノーウ(ポンテ・ヌオーヴォ)の戦いでは、フランス軍の圧倒的兵力の前にコルシカ軍は敗れ去り、パオリは英国に亡命する。これ以降島はフランス領になり、ナポレオンは義兵を率いてコルシカ独立を目指した反乱を起こすもフランス軍に敗北し、その上事前に察知していたナポレオン一家は既に島を出ていたものの帰国したパオリによってナポレオン家は焼き討ちにされた。
こうした歴史的背景もあって、コルシカ島ではフランス併合後、断続的に民族主義運動が起きている。しかしそれはフランスからの独立というよりは、その経済規模の小ささとフランス国家への歴史的な依存性からフランス共和国の中にとどまりながら立法権など政治的決定権を獲得する自治主義が中心である。1975年8月に自治主義勢力とフランス治安当局との間で激しい闘争(アレリア闘争)が展開され、自治主義勢力が非合法化されると、分離主義勢力のFLNC(コルシカ民族解放戦線)が組織されるが、1982年に地方分権政策の一環としてコルシカ地域議会が設置されると求心力を失い分裂する。そして現在繰り広げられている武力闘争は独立戦争などではなく、民族主義を名乗るグループ同士の内部抗争であり、近年は失業で悶々としている島の若者たちを徴用するなど非行問題化しつつある。一般の島民は民族主義には理解を示しつつも、政治運動からは一線を画しており、コルシカ人がフランスからの独立を望んでいるという指摘は不正確である
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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